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夢と夢

自分が命を燃やすものはなんだろうと思っていた。自分がやりたいことはなんなんだろうとわからなくなっていた。今は会社で評価を上げるために、よく徹夜をして、心臓がドクドクなる感覚が命を燃やすことだと思っていた。

自分は、小学校二年生からずっとやっていたサッカーが高校時代に実を結び、創部53年で初、県大会ベスト4という快挙を成し遂げた。準決勝までの三試合で連続ゴールを決め新聞に取り上げられるなどして、エースストライカーの名に相応しい活躍をした。準々決勝のゴールは、人生で一番と言っていいほど最高の瞬間だったことを覚えている。会場にいた数百名が私のシュートの一瞬に注目し、それがゴールに入った瞬間に会場が一つになった。全員の感情が爆発した。その瞬間を私が作ったのだ。そこで私は人生で一番の達成感を得た。その達成感までには幾度となく挫折をし、幾度となく小さな成功を繰り返し、その度に一喜一憂した。

それ以降、私は感情を無くしたのだ。なにか嬉しいことがあっても、「これはもっと大きな成功を生むための一つの過程でしかない。」と思うようになった。ただ、サッカーからビジネスにフィールドが変わって、あの瞬間を超えるような機会を得るには、ものすごく遠い。あれ、幸せってこんなに遠いものだっけ?って考えることもあったが、ビジネスというフィールドでもそうだが、立ち止まっているわけにはいかず、走り続けている。

今日こんな記事を書いたのは、数日後の評価ミーティングに向けてアピール用の資料を作成していた日曜日に、夕方頃疲れてベッドで寝た時にみた夢のなかで、自分が確かに、命を、肉体的にというより、魂を、燃やしていたからだ。普段見るような夢とは違い、全てのシーンが衝撃的で感覚と記憶に埋め込まれている。誰からかはわからないがメッセージ性が強かったことを覚えている。今日はその内容を紹介したかったというより、自分のために忘れないうちに少しでも書き留めておきたかったからだ。

夢の内容

普段東京で忙しなく過ごしている私は、ある休日に田舎の家に帰った。実家ではなかったが何故か両親とか兄弟がそこにいたのでそこに帰った。夢の中ではよくあることだが、自分でもよくわからない状況が設定されていたりする。そして今回の夢もそうだった。さらによくわからない設定として、私がいた世界は昭和の初期(私が生まれてないころ)だった。しかし、私は今の仕事をしていて、評価ミーティング直近だった。

私の頭の中では数日後に現在動いているプロジェクトの締め日があったが、大体の仕事が終わっていて、暇になっていた。そのため田舎の家に帰ったのだろう。

休日に帰ってもあまりやることがない状態で暇に潰されていた。なんとなく評価用の資料を作った方がいいんだろうが、田舎に帰ってまですることじゃないかなと思って手はつけなかった。地元の友達を誘って飲みに行こうと思って声をかけてみたが、みんな用事があった。仕方なく、裏にある山道(しっかりとアスファルトで舗装されてある道)に石を持って登るというトレーニングをした。その石の重みが妙にリアルで、途中で疲れて崖下に投げ捨てた。坂道を半ばまで登ったところで、ガードレールの外側に腰掛け、崖下に足を伸ばして田舎の街の風景を上からみていた。

あー、やることねぇなーみたいなテンションだった。そのまま夕暮れくらいになったもんだから、一旦家に帰ってゴロゴロしたが、相変わらず暇のままだった。兄は結婚式の準備でドタバタしていたし、姉はどっかに行っていた。弟たちは母と一緒にご飯を食べに出掛けていた。夕暮れ時になり夕飯も食べるものもなく、自分で適当なところに食べに行こうとしたが、歩いて45分くらいかかるらしい。しかしその田舎にはレンタサイクルがあった。だから、自転車を借りて出かけた。ちょっと涼しめな夜風に当たりながら自転車を漕いでいると、田舎町を出る途中に、大きいけど新しくはない屋敷みたいなものがあった。そこにテンション高めの人たちが出入りしていた。明らかに関係者ではなさそうな通りすがりの人も出入りしていた。やることがなかった自分はその辺りに自転車を止めて、何か面白いことがないかと、うっすい期待をして中に入ってみた。

中に入るとテンション高めの人たちが話をしていて、「XXさんはすげぇよ。」とか「一生XXさんについて行こうと思った。」みたいな声が聞こえていて私は「XXさんって誰だよ」って思いながら屋敷を一周して、出ようと思った。

ただ、あまりにも中にいる人たちがXXさんの話をしているもんだから気になって話しかけてみた。「XXさんって誰なんですか」って。そしたら会わせてあげるって言われて、半ば強引に連れてかれた。

会ってみると身長2メートルくらいで、横幅も相当ある男性が王様が座るような椅子に腰掛けていた。これ絶対やばいやつじゃんって思いながら、下手な行動はしないようにしようと周りやXXと名乗る男の出方を伺っていた。

そしたらXXが話しかけてきた。「お前の人生は薄っぺらい。人間として薄っぺらいからだ。」と。私は「は?」と思いながらも、心の奥底で同意する部分もあったのでXXの話を聞いていた。XXはなぜ私が薄っぺらい人間なのかを話し始めた。ただ、XXの話を全部聞いていたというよりかは、話半分に聞きながら、人間として薄っぺらいという言葉を聞いて思い当たる節を振り返っていた。

人間として薄っぺらいのは感情を動かさないようにしている、もしくは感情が動かないからだろうと。感情を安定させておくために、人に期待をしないし、嬉しいことがあってもグッと堪えたりしていた。その結果、最近では、お前って本当に人に興味がないよねって言われたり、自分が本当にやりたいことなんてわからなくなった。それでも合理的に考えてやった方が良いことはわかるから、それに従って動くことで小さな成功を積み重ねることができていた。ただ、合理的に出した答えが感情に結びついてこなかった。その結果、行動をしても表面的な結果が得られた時点で分かった気になっていた。大きな成功のためには、何かに対して誰にも負けないくらいやり続けなければならないという理性は働いていたが、行動に移すには感情が足りなかった。自分の好きなことがわからないからだ。

ここまで振り返って、XXの言葉に同意した頃、XXは自分の野望を語っていた。それは宇宙の話だった。「宇宙にはロマンがある。何がロマンかって、それは人類が不可能だと思っていることだ。」そのままXXはクールな熱を持ちつつ話を続けた。「そしてロマンが人を動機付け、人が不可能を達成するために学ぶことを可能にするのだ。そして同じ意志を持つ人たちが、運命の巡り合わせで出会い、いつか不可能を達成する。これらは不可能を達成するためには欠かすことはできない。」と。

その話を聞いたタイミングでは私はその言葉を理解できなかったが、何かに刺さりはした。少しの静寂の後、私はXXに「お前の人生は薄っぺらい。人間として薄っぺらいからだ。」と言われたことを思い出し、それについての反論を述べていた。反論はしたが、私の意見はXXと同じだった。それでも反論した理由は、全力で壁打ちしてみても、受け止めてくると感じたからだったと思う。

ひとしきりの議論の後、論破されまくった私は、屋敷を出て、空を見上げる形で寝転がっていた。悔しかったのか、スッキリしたのか、涙ぐんでいて、夜空の星が滲んでいた。

そこでXXが、私の横に来て空を指さしてこう言った。「よく見ろ、これが私たちが目指しているものだ。」と。一瞬だけ星がくっきり見えたが、溢れる涙で、星が2度と見えなかった。

そこから何故か25年後になっていた。私は年に一度、XXのロマンの進捗を見にきていたが、25年後にロケットの第一号が完成していた。それは全然宇宙に届きそうな規模ではなく、メカニカルなボディを持っているわけでもなく、少量の火薬と発射台は竹を使っていた簡単なものだった。

アスファルトで舗装されている山道の途中で、絶妙な角度に調整されているロケットの周りには開発に携わっていたであろう人たちが老役男女合わせて20人くらいいた。あのテンション高そうに屋敷に出入りしていた人たちだったと思う。そのうちの一人が、ロケットの角度は地球の自転を加味して調整したんだと自慢してくれた。しかし、発射のために火をつけるせいで、発射台の竹が熱で曲がってしまう可能性があるというポンコツものだった。

私はそれにツッコまずに、「どうか曲がるな。」と願っていた。ロケットの角度を自慢してくれた人が、いよいよロケットに火をつけた。その場にいた20人が一斉にカウントダウンを始めた。期待と喜びに満ちた声は、サッカーのゴールを決めた瞬間に似ていて、すごく懐かしかった。「じゅう!きゅう!はーち!、、」

私も遅れまいと、そのカウントダウンに全力で参加した。「ろーく!」から参加したのに、「さん!」のころには声が枯れていた。あとふた声、がんばれ私。「にー!」、「いーち!」。「パンッ」と飛んだロケットの行先を私は見ていたが、他の人は抱き合ったりジャンプしたり手を叩いたりして、ロケットの行先なんて誰も見ていなかった。私もロケットの行先を見るのが馬鹿馬鹿しくなってその輪に加わり、全力で泣き騒いだ。

高校時代のサッカーの県大会ベスト4を決める試合でゴールを決めた瞬間と同じくらい最高の瞬間だった。

最後に

何を得られたのかはまとまっていない(まとめるつもりもない)が、何かが自分の中で変わった気がした。目覚めてからすぐ、重要なことだと思ってこの記事を書き始めた。まとまりが悪いが書きたいことはかけたのでこの辺りで手を止めておきます。

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