書くことは、在ることだ ── 価値の保存と孤独からの解放について
noteを開くとこんな通知が。
毎月noteに書き続けて、気づけば22ヶ月。約2年間も続いていたことに、正直自分でも驚いている。「継続は力なり」なんて、どこか他人事に聞こえてた言葉が、今では心に響く。この小さな習慣が、「なぜこんなに創作活動に熱中しているんだろう」という問いを考えるきっかけになった。
なぜ人は書くのか。なぜ私は書き続けるのか。
創作欲求の二つの源泉
人間の行動の源には、必ず切実な理由がある。私の場合、それは「価値の保存欲求」と「孤独からの解放欲求」という二つの大きな力だった。
価値の保存欲求 ── デジタルな不死性を求めて
私たちは誰しも、自分の存在に意味を見出したいと願う。noteでの創作活動は、まさにその「意味の具現化」だと考えている。
現代社会では、多くの人が「既にある価値」への同一化を選択する。例えば、「ITエンジニアになれば安定する」という考えで職業を選ぶ。これは自分らしい振る舞いとは異なる場合がある。これは「創作」ではない。むしろ、既存の価値の「消費」だ。
創作とは自己表現であり、それを発信することで、自分という固有の存在に価値をつけていくことができる。その結果、自分が自分のまま社会に受け入れられる。
この自分という存在に独自の価値を付与し、それを未来に残したいという願望。これが私を創作に駆り立てる欲求の一つだ。自分という存在の価値を保存することで、医学的な死すら受容できるようになってくるのだと思う。
子孫を残したいという欲求や、人生の意味を探究する行為も、この「死の受容プロセス」から派生したものかもしれない。私たちは、自分の有限性を受け入れつつ、何かを残したいと願う。それは人間として、あまりにも自然な欲求なのだ。
孤独からの解放欲求 ── デジタルな共感を求めて
都会の雑踏の中でスマートフォンを見つめる人々。物理的には人で溢れているのに、なぜか心は満たされない。これが現代の孤独の形だ。
私の場合、社会的な繋がりは十分にある。しかし、心の奥底では常に「理解されたい」という願いが渦巻いている。それは日常の会話だけでは埋まらない何かだ。
この「理解されにくさ」は、おそらく自分の選んできた生き方に関係している。私は意識的に、少し変わった道を歩んできた。人と同じことをすることを避け、あえて違う選択をしてきた。そういう意味では、自分で自分の理解されにくさを作ってきたのかもしれない。
だからこそ、言葉で橋を架けたい。自分の考えていることを、できるだけ正直に表現したい。それは、誰かに理解してもらいたいという単純な願いから来ているのだと思う。
言葉が作る、確かな居場所
ハイデガーは「言葉は存在の家である」と語った。これは単なる比喩ではない。言葉によって、私たちは散漫な意識に形を与え、曖昧な存在を確かな「何か」として定着させることができる。
価値の保存と孤独からの解放。この二つの欲求は、実は「言葉による存在の確立」という一つの営みに収斂する。noteという場は、まさにそれを可能にする場所だ。
自分の考えや経験を言語化することは、存在に輪郭を与える作業である。そして、その表現された言葉は他者との間に共通の理解を作り出す。認識し、認識されることで、存在は確かなものとなる。
毎月の投稿は、この「存在の確立」のための実践だ。自分の内面を言葉にして発信することで、私たちは自己の価値を保存しながら、同時に他者との繋がりを紡いでいく。
noteは、このような存在確立の新しい可能性を私たちに示している。それは、デジタルの世界における新しい「在り方」の探求でもある。
書くことで見つける、存在の均衡点
マルクスの疎外論が示すように、私たちは「本来の自分」と「社会の中の自分」の間で揺れ動いている。
この緊張関係の中で、書くという行為は特別な意味を持つ。それは単なる自己表現ではない。書くことで、私たちは自分の価値を確かめ、保存する。そして同時に、その言葉を通じて他者とつながることができる。
noteに綴られる言葉は、理想と現実の間で揺れ動く私たちの存在証明であり、孤独を超えるための架け橋となる。だからこそ、書き続けることには意味がある。それは、在るということの、最も確かな形なのかもしれない。