IVSと清水寺と倉俣史朗--機能性を取り除いたインテリアデザインの本質的な価値は人間とインテリアの間のコミュニケーション
京都で行われたIVSというスタートアップカンファレンス(7/4~7/6)に参加してきました。
めちゃくちゃ熱気がすごくて楽しかったです。私も初日の朝からアクセル全開で臨みました。「起業しろ」シールが2つ貼られるのは前人未到なのではないでしょうか。
また、普段からお世話になっているLAPRASさんのブースでは僭越ながらパンチングマシーンを試させていただきました。普段から筋肉をつけておくと思いもよらないところで使い所が多くて助かります。
IVSの真面目な感想は別記事で書こうと思います。学びが多すぎたし視座も高まったしちゃんと整理しないとなと思いました。
7/7(日)は京都観光
IVSが終わった翌日は京都を観光してきました。久しぶりの京都が良すぎたので旅行メモを残します。
東山駅から平安じんグゥに向かう道中
なんといっても京都が暑すぎた。涼しさを求めてなのか夏はドブの写真を撮ってしまう。
暑すぎて退避したところが良かった。小物が置いてあったけど、サイズ感よし、色合いよし、模様よし、形よし。全部欲しい。
滝のような汗をかいて平安じんグゥの入口に到着。500mlのアイスコーヒーは200m歩いただけで飲み干した。燃費で言えば0.4km/ℓだからだいぶ改善の余地がありそう。
平安じんグゥといえばこの鳥居。私の肩幅もこれくらいを目指したい。
平安じんグゥでは私の好きなハトたちが井戸端会議してた。癒される。
ハトたちの井戸端会議の途中で、たくましい胸筋を見せつけながらナンパするハトが乱入しにきて面白かった。
もちろん結果は全敗。これは鍛えている私にとってはものすごい教訓である。
そしてクソ暑い中奥の方で野球やってた。高校部活思い出してエモかった。
せっかく平安じんグゥに来たのでおみくじを引くことにした。おみくじはあんま信用してないから普段は引かないけど夏の暑さにやられて引いてみた。
平安じんグゥだからってやっていいことと悪いことがあるでしょう。なんで全員大吉にしてやらんのだろう。やっぱハトしか勝たん。
ただ、ここに来た目的は平安じんグゥでもなくハトでもなく京都国立近代美術館。
京都国立近代美術館
京都国立近代美術館でインテリアデザイナー倉俣史朗さんの展覧会がやっていたので行ってみることに。ここは事前リサーチで目をつけていた。
「商品化というある種のしがらみから解放されたデザインはどんなものになるのだろうか?」という疑問を持っていたのでかなりワクワクしていた。
この「しがらみ」というのは、工業的な側面(量産できるデザイン)や機能的な側面(ユースケースに適したデザイン)だと思っていた。
そこも少しは正しかったのだが、倉俣さんはもっと深いレベルでの「しがらみ」を考えていた。
例えば引力(重力)というしがらみから解放された(重さを感じさせないような)椅子を作っていた。
また、機能性という側面(しがらみ)を失った場合の本質的なインテリアの価値はなんなのかという問いに対しても倉俣さんは回答していた。
それは人間とインテリアの間に生まれるコミュニケーションである。
インテリアによって人間の背筋が伸ばされるようなコミュニケーションだったり、人間の好奇心がくすぐられるようなコミュニケーションが生まれるようにデザインされたインテリアが多かったように思える。
こちらは倉俣さんの代表的な作品の「硝子の椅子」だ。
硝子の椅子についての解釈はこうだ。
また、倉俣さんは「思考」というしがらみについても言及されていた。
倉俣さんは意図的な思考ではなく、無意識に働く思考というものに重点を置いていた。その中でも特に「夢で見た映像」や「少年時代の記憶」に熱狂していた。ミス・ブランチは確か倉俣さんの少年時代の記憶から着想を得たものらしい。普通にデザインめっちゃ好き。
個人的に一番良かったのは写真を撮れないエリアにあった「引き出し」のデザイン。
機能的な「何かをしまう」とか、「取り出す」ということに本質を置いておらず、「中に隠されている何かが気になる」とか「秘密を取り出すワクワク感」みたいなところに主眼を置かれてデザインされていた気がする。
この引き出しの本質的な要素は、世の中に溢れているインターネット上の箱である「情報検索システム」の設計思想にも活かせそうな気づきだった。
情報検索という文脈では、機能的な側面として「欲しい情報に辿り着くこと」が重視されてしまうと思う。
しかし、人間が「引き出し」ないし「情報検索システム」に本質的に求めているものは、欲しい情報に辿り着くのではなく、「箱」の中に何か秘密や興味を引くものが入っているかもしれないというワクワク感なのかもしれない。
そう考えると井上陽水さんがしていた「もの探し」は完全に徒労に終わってしまうだろう。もしくはタンスの中を探そうとしたときに初めて紛れたかもしれない。
この線で、情報検索システムの利用体験を設計しているシステムはあるのだろうか。もちろんある程度、機能的な側面は無視できないとしても、人間が本質的に引き出しに求めるワクワク感が蔑ろにされては、情報システムが自然な形で人間に浸透していくことは難しいかもしれない。
AIによる検索の最適化とかは機能的な側面での最適化、つまり本質とは外れた部分最適解でしかないのかもしれない。
楽天が初めてオンラインショッピングモールとして成功したのも、「オンラインでものが買える」という機能的な側面ではなく、「エンターテイメントとしてのショッピング体験」という人間の本質的な側面をサービスのコアに置いたからだという。
しがらみについて内省タイム
しがらみとは、インテリアデザインにおける商品化という前提、選挙でいう所属政党、起業家におけるVCの存在とか、個人レベルでいうバイアスとか価値観の話、地球上に存在する物質にとっての重力などですね。
こういったしがらみを取り除いて行ったときに初めて、本質的なものに向かうことができるのではないかと思いました。
最近の例だと、石丸伸二さんのやり方がそうだと思う。
政治の世界において、石丸さんのような「今まで願っても見当たらなかった存在」というのが出てこなかった理由は、所属政党があることで党利党略に縛られてしまうという事情があったかと思います。
しかし、選挙に勝つためには資金面においても組織票という面においても所属政党の支援が重要です。
ですが、石丸さんはそのしがらみを捨てたからこそ得られた自由や取れるスタンスがあり、それが本質的に多くの人が求めていたことだったんだと思いました。
もちろん、足元を見ればしがらみを捨てても戦える力がなければ話になりません。ですが石丸さんの場合は、SNS戦略、言葉の力をよく知っていたこと、アナリストという経歴や圧倒的な調査量や本質的な有権者目線、人柄、リーダーシップといった重要な要素が揃っていたので戦えたのではないかと思います。
そもそも本質的なものに向かっているので、多くのフォロワーが自然とついてきたんだと思います。
この、しがらみを捨てた先にある本質的な価値の追求を自分の哲学にしていきたいなと思いました。
やっぱり資本主義というしがらみを捨ててもお話になるレベルの武器を身につけていきたい。
平安じんグゥを出て、八坂神社へ
美術館での深い内省を経て、また暑い世界に繰り出した。
のれんにバターどら焼きと書いてあったので小休止した。減量中だが美味しくいただいてしまったことはここだけの話。
猛暑オブ猛暑の中の清水坂。だけど歴史的な街並みが良すぎて暑さも忘れる。
そして清水寺に到着。
少し前に食べたバターどら焼きの罪滅ぼしをしようと、階段ダッシュを検討したが風情が損なわれると判断し、やめておいた。東京No.1のベストボディを目指していようと、私の事情で世界遺産を汚せない。我ながら良い判断だったと思う。
そして写真撮ったらたまたま写った浴衣の女性。貰い映え。お守りを買ったおかげかもしれない。
ここまで伸びてもまだ花が咲いていないのは私のようですね。遅咲き的な。焦らず行こうや。おみくじにもそう書かれていたし。大事なのはネガティブケイパビリティ。「早いが偉い」という世界のしがらみから解放されていこうじゃないか。
清水寺を一通り回り終わった後に、お昼ご飯を食べていなかったので遅めのご飯にした。茶そばを注文したが30秒で食べ終わってお会計したらお店の人にびっくりされた。お茶の香りが強くて美味しかった。
帰り道に常夜燈を発見。People1の常夜燈が脳内再生される。
まとめ
京都旅行は最高でした。特に倉俣史朗さんの展覧会が衝撃的すぎました。
倉俣さんの内省の深さとか世の中の観察眼はめちゃくちゃ自分にフィットしたので、今後も倉俣さんにインスパイアードされに行こうと思いました。
とりあえず倉俣史朗を再読します。
noteで旅行記を書くというのはなんと豊かな時間だろう。今後もやりたい。