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退屈という負の感情と向き合う--退屈を凌ぐには自分のトラウマ的な欠如と向き合うこと

退屈すぎて死にたくなることがあった。

今すぐ死ぬことが一番幸せな方法かもしれない。

いつもやっている内省でたどり着いてしまった答えだ。

だが、根っからポジティブな私はその答えに辿り着いても生きることに執着するのである。この記事は私を不幸たらしめている退屈という感情を理性的に手なづけようとした思考ログである。

「熱中できることが見つからない」という方の参考になれば幸いです。

退屈とはネガティブな感情

暇と退屈の倫理学という本では「暇」と「退屈」が明確に区別されている。

暇と退屈の倫理学

暇とは、何もする必要のない時間でその人のあり方には関係のない客観的な条件のこと。
退屈は、何もすることがなくて不快だという主観的な感情や状態を指す。

暇と退屈の倫理学

人々は暇な時間を持て余すと、退屈というネガティブな感情になる。

本書について詳しく知りたい方はこちらのクリエイターの記事がおすすめです。

退屈を凌ぐには熱中することが必要

退屈を凌ぐには「熱中すること」が重要だと言うが、これが難しい。

例えば、電車を待っているときに「Youtube」を見て退屈しのぎを行う。しかし、途中で「あと何分で電車くるかなぁ」と時計を見たとする。そうするとこの時点で、退屈を凌ごうとしている自分を忘れることができていない(退屈を凌ぐためにYoutube動画を見たんだと言う自分を思い出してしまう)ので、退屈からは逃れられていないのである。

内省しすぎて熱中できることがなくなった

昔は「仕事」も「愛するということ」も、「成長」に対しても熱中できていた。だが、普段からしている内省で変に達観してしまった結果、いずれにも熱中できなくなってしまったのだ。

このうち「成長」に熱中できなくなった経緯を例に取って説明してみる。

私が持っていた「成長意欲」は、一種の社会適合の戦術として自分にインストールしていただけだった。そして適合先の社会というのは資本主義社会のことである。資本主義社会では成長というものに大きな価値がつけられる。この社会で生存戦略を立てる場合には、「成長」という要素は必須と言えるだろう。

そのため、私は「仕事を通して成長すること」を生き甲斐にしていた。そういう価値観を無意識的にインストールしていた。

一方で「仕事」や「成長」に固執した結果、成長意欲が見られないような人に対してはリスペクトがなくなってしまったり、その人との関係に不安を感じるようになってしまった。また、「仕事を通して成長すること」にフォーカスしすぎてプライベートの時間がなくなることで自分自身の幸福度も頭打ちになってきていた。

ポスト資本主義や構造主義哲学を学ぶと、資本主義的なパラダイムによる弊害がよりくっきり見えてくる。

そうなると、「両方理解して使い分けること」が重要だと思うようになり、「成長したいという価値観」と「足るを知ろうとする価値観」を使い分けるようになった。

ここまでくると、自分の「成長意欲」を客観的に見れるようになったので昔ほど盲目的に「成長」を信じることができなくなった。

そうなると、自分にとって本当に価値があるものは「成長ではない何か」になってしまった。つまり、成長自体もある種の"暇つぶし"になってしまったのだ。

自分にとって本当に価値があることは何か?

以前の自分だったら、この問いに対する回答が「仕事」や「成長」だったが、今では仕事でも、成長でも、愛するということでもない何かとしか言えなくなってしまったのだ。

内省は「自分が熱中できること」を奪っていくのである。

人生の残り時間は退屈を凌げない苦痛が続く時間

熱中することがなくなってしまった結果、残りの人生の時間は、退屈を凌げない苦痛の時間が続くだけかもしれないという結論に至り、今死ぬのが最善策かもしれないという結論に至る。

(深刻に悩んでいたわけではなく、理性的にそういう結論に達することができた)

冒頭にも述べたが、根っからポジティブな私は生きることに執着するのである。そして、Dead or Answerの問いが生まれる。

退屈を凌ぐにはどうしたら良いのだろうか?

私はこの問いに、生死をかけて挑むのである。

身体性を伴う熱中は使い切ってしまった

退屈を凌ぐ上では、「身体性を伴う熱中」が短期的な解決策になる。

人間は動物的な生き物であり、身体的に極限状態になると体からくるシグナルが脳みそをガッツリ支配する。

私はこの性質を利用しているが、すでに週12回の筋トレをしているのでこれ以上増やすのは自殺行為だ。

※2024年8月25日(日)BBJ 東京大会に出るためにハードワークしています。

身体性を伴う熱中は長くは続かない。体力的に考えて一日中やれることではないのだ。

暇を潰せても数時間というところだ。何か別の方法はないか。

哲学を引用すれば「熱中するには何が必要なのか」の答えが出せる

人間が本質的な意味で熱中できることとは、「自分の生きる意味になると本気で信じれるもの」だ。

哲学が人間存在の意義(人間の生きる意味)を定義する学問として存在しており、中世ヨーロッパたちの暇人たちがその問いを考え続けている。

暇人たちは、「生きる意味」もしくは「生きる意味の考え方」を見つけたいのだ。熱中するほど盲信できるものを見つけたいからだと思う。

近年で一番支持されている実存主義哲学においては、「人間存在の意義のような本質はなく、実存していることに価値がある。そして人間には主体的な理性があるので、自分の理性を持ってして主体的に自分の生きる意味を定義していこう」みたいな考え方だ。

だが、本質的な意味で、「人間の生きる意味はない」というのが現時点での人類の結論だ。

今すぐにすべきことがあっても熱中はできる

過去の自分を振り返ってみると、学生時代は今すぐやらなければならないことに溢れていた。「あれもやらなければ、これもやらなければ」といろいろなことに手を出していたので、「時間が足りない!!!」という状態になっていた。

今では「足るを知る」というマインドを強化したことや、高度なメンタルモデルを手に入れたこと、そして社会に十分に適合した結果、「今すぐにすべきこと」はなくなってしまったのだ。モチベーション量に大きなインフローをもたらす危機感がなくなってしまった。

それでも、「老害にならないようにポジティブな変化をし続けなければならない」という意思はあるのだが、時間割引率により遠い将来の危機感はバーゲンセールなのである。

時間割引率とは、将来における価値を現在の価値に直すときそれをどれだけ割り引くかという尺度

時間割引率

私は「今から準備をしておくかぁ」で動くほど、崇高な理性を持ち合わせていない。そもそも構造主義哲学を学んだ私の自己認識では、人間に理性はなく、状況が人の行動を大きく支配しているという人間観を持っている。

だが、そう考えると「今すぐにすべきこと」は意図的に作り出すことができる。

状況を作り出せば良いのだ。

では、その状況とはどんな状況なのだろうか。

試される側に立った時に自分が何者かが感じられる

私が普段聴いているラジオでは以下のように述べている。

自分が見る側から見られる側になるとき(意味のシステムの外側を覗こうとするとき)に、自分のトラウマ的な欠如が現れてくる。そして自分が危機に晒される。そこで自分が何者かが感じられる。ただし、それによって自分が何者かに関する答えは得られない。それは答えがないからだ。

敗者のつぶやき #20 見ること・見られること

人間は試される側に立った時に、時間の使い方など考えていられないのである。一刻も早く自分のトラウマ的な欠如を克服しなければならないと感じるのである。

その瞬間にこそ自分の生きる意味を感じることができる。そして、深く熱中できるのである。

試される側に立つ方法

試される側に立つには、自分のトラウマ的欠如が露わになる状況を作ることだ。なので人によって全然違うものになる。

最近見つけた、「私が試される側に立つ方法」は3つある。

起業すること、ベストボディジャパンに出ること、バーに行くことだ。

起業家は投資家や、他の事業家、世間の評価など、常に試される立場になる。試される側に立った時に、自分のトラウマ的な欠如が露わになって、危機に晒される。

この時の私のトラウマ的な欠如は、今までは会社に雇用されるという形で隠されてきた「資本主義社会への本物の適応力」だと思う。

ベストボディジャパンに出る場合においては、どれだけ自分の食欲を抑えることができるかや、「楽をしたい」という人間の行動原理と対極の「筋肉をしばく」という行為を続けることができるかが試されていると思う。

この時の私のトラウマ的な欠如は、「強い自分が弱い自分に打ち勝つことができるかどうか」という不安や疑問だと思う。5年くらいずっと口だけの人間になっていたので、ここで何としても生まれ変わりたかった。

私にとって「バーに行く」という行為は、試される側に立つ行為だと思っている。バーに行くことで露わになる私のトラウマ的な欠如は「仕事だけしかやってこなかったつまらない人間」とか「バーのような"いい雰囲気"の空間でも格好がつくやつ」である。

バーには多様な人がいる。その多様な人々に「仕事の話しかできないつまらないやつ」ではなく、「いろいろな話題に精通している面白い人間である」とか「なんかあの人って魅力的な人間だな」とジャッジしてもらえるかどうか、自分で自分を試していたのだ。

そのため、私はバーでも常に気を配って理性的に振る舞おうとするのである。どれだけ酔っても「バーテンや常連や初対面の人の満足度を高めること」を考えて動いていた。

紹介した3種類の「試される側に立つ方法」で共通しているのは、自分の価値観に現時点では含まれていない未知の(拡張された)領域に飛び出すことである。これが、引用部分の「意味のシステムの外側を覗こうとする時」とか「試される側に立つとき」なのである。

要するに、自分の中に現時点では意味のなかったことをするので、承認欲求とか、自己実現欲求のためにしているのではない。ただ純粋に、「熱中する理由が欲しいから」とか「暇を潰すため」なのである。

退屈を凌ぐカギはトラウマ的な欠如と向き合う内省

トラウマ的な欠如と向き合う内省であれば、変に達観してしまい熱中できなくなるという弊害に悩まされることもなくなる。むしろ今の自分が本質的に何をすべきかの答えを見つけてくれるだろう。

今後も私は、トラウマ的な欠如を炙り出すために内省を行おうと思う。

最後に

2年前くらいに暇と退屈の倫理学を読んで以降、どうすれば熱中できるのかを考え続けてきたがようやく答えを出すことができた。

この答えを出す過程で「人間観(人をどう捉えるのか)」や、「不確実性が高く答えのない超抽象的な課題にどう取り組んでいくのか」といったメンタル・モデルを超絶的に発達させることができた。

自分の強みは、言語化によるメンタル・モデルの強化サイクルだと思うので引き続きやっていきたい。

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